長等神社のあゆみ
天智天皇が近江大津宮へ遷都(西暦667年)の際に都の鎮護として、須佐之男命を志賀の長等山岩座谷の地に祀られたのが始まりである。
天智天皇(西暦669年)五月五日
天皇が宇治山科から帰途のおり当神社へ弓矢を奉納され、これにより大友与多王(天智天皇の御孫)がその日を祭日と定められて以来、 今も五月五日を例祭としている。
貞観二年(西暦860年)二月
三井寺一山を開祖された智証大師(円珍)が日吉山王神を勧請し、一山の守護神として祀られ、新日吉社または新宮社と称するようになった。
天喜二年(西暦1054年)四月
現在の地に遷宮され、その地を神出と称することとなった。
永保元年(西暦1081年)四月
白河天皇は勅使を参向せられ、平安を祈願された。
興国元年(西暦1340年)
足利尊氏により、先の南北朝の戦乱で消失した社殿等が再建された。 社殿壮麗にして十二の廻廊や楼門その他多くの建造物があり、湖南の大社といわれ、皇室を始め武将や多くの民衆から深く崇敬され隆盛をきわめた。
明治十六年(西暦1883年)
現在の社号(長等神社)となった。
明治三十七年(西暦1904年)
鎌倉様式を基本として、平安、室町時代の和様建築の粋を取り入れて現在の楼門を復興した。
明治四十三年(西暦1910年)
一月県社に列せられる。
昭和四十七年(西暦1972年)七月一日
楼門が中世の優れた社寺建築様式の再現を評価され、大津市指定文化財の指定を受けた。
昭和五十七年(西暦1982年)四月
長等神社創立千三百年記念大祭を斎行。
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特記事項
  • 2013年12月27日更新